山水をたずねて―中国旅行記― |
徐霞客「遊天台山日記」 |
天台山は、富士山のような一つの峯ではなく、華頂峯などのいくつもの峯々を含む山塊の総称である。
浙江省を東西につらぬく仙霞山脈の東端にあたり、北は四明山・会稽山と向かい合い、南は括蒼山や雁蕩山と隔てる。山域全体で、浙江省台州市天台県域の東北部を占める。
山域の東北部に位置する標高1138㍍の華頂峯が最高峰。そのやや西の石梁飛瀑と、山域南部の赤城山の二つが、天台山を代表する景勝で、その「赤城山―石梁飛瀑」のラインを中心とするエリアが、天台山のコアをなす。そこから西南にかなり離れた寒巌(寒山が住んだという)や、天台県城を挟んだ翠屏巌も天台山に含まれる。
晋孫綽の遊仙的な作品「遊天台山賦」に歌われるなど、古くから佳景幽寂の地として知られ、道士・隠士が多く住み、仏寺道観も数多く建てられてきた。
陳の太建7(575)年に智顗(のちの天台大師)がここに入山。かれが隋の晋王(後の煬帝)の尊崇を受けたことなどから天台山仏教は盛んとなり、智顗の没後に国清寺が落成している。
中国のみならず、朝鮮や日本からも多くの僧俗が訪れた。最澄・円珍・栄西なども来山して修行した。
最盛期は、仏寺70箇所以上、道観も二桁を超えたようであるが、現在は、仏寺9箇所、道観2箇所を数える。
成田→(飛行機)→杭州→(自動車)→天台山
・山門。現代のものであるが、俗界と、聖界である山中とを象徴的に分けるもの。ここをくぐると、神聖な聖域である天台山中に入ることになる。
・「国清禅寺」扁額。
・国清寺。隋代に煬帝の支援を受けていた天台智顗が開いた。
・「隋代古刹」。いわゆる山麓寺院で、大型の滞在型施設。最澄・円珍・成尋ら入唐入宋僧も数多く訪れた。
・唐代の僧侶一行の遺蹟。一行は、玄宗皇帝の支援を受け、新暦「大衍暦」を策定した。「大衍暦」は、明末に西洋天文学に則って編暦が行われる以前は、曆作りの手本とされた。
・隋代創建の隋塔
・谷底の高明寺に下る。一部には徒歩のみの道もあり、荷物も竿で担いで運んでいた。
・高明講寺。山中寺院。こじんまりとしているが、おちついたたたずまい。寺の人だろうか、気功をしていた。
・高明寺とも。「智者十二道場」のひとつ。改装中であった。
・山道を真覚寺に上る。
・真覚講寺。こちらもちいさな山中寺院。奥の院である。「智者十二道場」のひとつ。
・天台大師を祀る「智者肉身塔」。智顗以後の天台僧も多く葬られている。
・仏隴付近の小村。段々畑がある。智顗等が修禅したところ。静謐な環境。
・方広寺を俯瞰。もと羅漢寺・石梁寺といい、明代ころから方広寺となった。上中下の三寺院があったが、上方広寺は20世紀中頃に消失し、訪問時には現存しなかった。
・石梁を見下ろす。徐霞客は、石梁を渡って下を見下ろしたところ「毛骨倶悚(ぞっとして鳥肌が立つほど慄然たる思いであった)」と記している。
・石梁飛瀑。近景。天台山きっての名勝。東晋孫綽の「遊天台山賦」にも描かれる。
・石梁飛瀑。遠景。古くから詩歌にも詠われ、いまではアクション映画のロケなども行われている。
・飛瀑の麓から下流を見る。
・石梁の石刻。「第一奇観」。
・華頂寺。修理中だった。高明寺もそうであるが、このころ(2005年頃)、宗教が復権しつつあり、寺院や道観が修復・新築される傾向があった。
・華頂寺大雄宝殿。華頂峯は、かつては道教的な遺蹟である甘泉居所や李白書堂、王羲之墨池などがあった。華頂寺の名は明代くらいから見える。
・桐柏宮。王子晋の治所であったとか、孫権が葛玄のために建てたと伝えるが仮託だろう。確実なのは、唐睿宗が司馬承禎のために桐柏観を重修したこと。以来天台道教の拠点であった。ダム建設により移転新築。
・桐柏宮。
●薄暮の山内
・山頂の梁妃塔と山腹の飛霞寺。現在の塔は、1940年代に鉄筋コンクリートで再建されたもの。
天台山→(自動車)→杭州
杭州→(飛行機)→成田
*「天台山初訪」は、拙稿「中国の山岳と宗教見聞記(その1)~天台山・廬山~」「埼玉大学国語教育論叢」第11号(2008年)に報告したものをもとにしている。
【最終更新 2023/05/31】
(終わり)