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埼玉県にも多くの石碑が残されている。その中には、近世・近代のもので、碑文が漢文で書かれているものも多い。それらは、当時の社会や教育、人々が重要だと考えていたことを伝える貴重な資料として、地方志などに翻刻されて記録されている。しかし、こうした記録の中には、碑文の字面だけを見て、そのまま書き写したものが少なくない。つまり漢文の碑文を、文章として読んでおらず、ただただ文字を写しただけなのである。そのため、文字の読み間違いが生じることとなり、同じ碑文であるにもかかわらず、翻刻によって文字の異同が生じている。こうした「誤読」に基づく資料となってしまっては、いくら貴重な資料であると言っても、その資料的価値は著しく下がらざるを得ないだろう。
そこで、これらの漢文資料を利用できるものにするためには、文章をきちんと読んで解釈した上で、碑文の文字を確定する必要がある。
本サイトでは、埼玉県内に残されている漢文の碑文を中心に、石碑の現物にあたりつつ、碑文の解読を行うこととする。
埼玉県にある碑文を翻刻したものとして、『埼玉県教育史 金石文集』(一九六八)や各市町村史があるが、墓碑などはその後破棄されたのは、行方が分からないものがある。これらは、やむを得ず、既に翻刻されているものをもとに、訳注を作成する。
碑の名 | 所在 | 建碑年 |
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照海の墓碑 | 桜区白鍬 | 1818(文化15) |
日向十景碑 | 桜区西堀 | 1841(天保12) |
仏隴道人の碑 | 緑区中尾 | 1844(天保15) |
観誉の墓碑 | 桜区宿 | 1869(明治2)頃 |
大熊溪雲居士之碑 | 浦和区岸町 | 1871(明治4)頃 |
明治八年六字名号塔 | 桜区宿 | 1875(明治8) |
埼玉縣人殉難之碑 | 浦和区岸町 | 1882(明治15) |
三子追福碑 | 浦和区岸町 | 1882(明治15) |
星野順栄寿蔵碑 | 南区太田窪 | 1893(明治26) |
凱還之頌 | 桜区宿 | 1897(明治30) |
玄舟顕彰の碑 | 桜区宿 | 1901(明治34) |
臼木栄信頌徳碑 | 緑区三室 | 1905(明治38) |
行在所記念之碑 | 浦和区高砂 | 1907(明治40) |
鳳翔記光碑 | 桜区下大久保 | 1935(昭和10) |
碑の名 | 所在 | 建碑年 |
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西澤曠野の墓碑 | 中央区本町東 | 1823(文政6) |
西澤曠野夫人の墓碑 | 中央区本町東 | 1827(文政10) |
日昌上人の墓碑 | 中央区鈴谷 | 1828(文政11) |
西澤蘭陵の墓碑 | 中央区本町東 | 1851(嘉永4) |
稲垣田龍の墓碑 | 中央区鈴谷 | 1862(文久2) |
稲垣正就の墓碑 | 中央区鈴谷 | 1881(明治27) |
史蹟西澤曠野先生墓所碑 | 中央区本町東 | 1932(昭和17) |
碑の名 | 所在 | 建碑撰文年 |
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重闢茶塲碑 | 中野 | 1832(天保3) |
狭山茶塲碑 | 中神 | 1857(安政4) |
茶塲後碑 | 中野 | 1876(明治9) |
永代常夜燈 | 高倉 | 1878(明治11) |
北狭山茶塲碑 | 新久 | 1887(明治20) |
碑の名 | 所在 | 建碑年 |
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五福具備記 | 笠幡 | 1863(文久3) |
発智孝正墓碑 | 笠幡 | 1863(文久3) |
発智長義墓碑 | 笠幡 | 1863(文久3) |
発智家正墓碑 | 笠幡 | 1864(元治元) |
賑民圃碑 | 笠幡 | 1865(元治2) |
碑の名 | 所在 | 建碑年 |
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狭山茶塲之碑 | 箱根ヶ崎 | 1836(明治11) |
碑の名 | 所在 | 建碑年 |
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亀徳泉碑 | 苅羽 | 1894(明治27) |
碑の名 | 所在 | 建碑年 |
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武豊鳳翔閣碑 | 長尾山 | 1940(大正9) |
碑の名 | 所在 | 建碑年 |
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若松幼稚園碑 | 浜町 | 1916(大正5) |